今日、仕事中思った。もう、幸せになるのは、諦めます。
何でそう思ったのか、具体的には自分以外の個人情報を晒すことになるので、書けないけれど、とにかく、諦めることにした。
大学生の時、10年前くらいになるけど、その頃は強くそう思ってた。幸せになってはいけない、と。
その頃そう思っていたのは、哲学者の中島義道の本を読んだのが原因として大きいと思う。あと、画家の石田徹也の生き方を参考にしていたのもあるだろう。
幸せになることは美しくなく、求道者の様に美しく生きたいと思ってた。
今回は、幸せになれないと思ったからそう思うことにした。自分には幸せになることはできないと思った。つまり、そもそも私には幸せになることは、選べない、選択肢にないんだと思った。
だから、潔く諦めることにした。
最近、徐々にやっぱり幸せになりたいって、思ってきたところだった。
福原遥とか大原櫻子と結婚したかった。そうでなくても、可愛い優しい同世代の人と付き合いたかった。そして、いつか子供が欲しいと実は思い始めていた。
私の頭の中に、最近描いてたロードマップがある。
玉ねぎみたいな形になっているのは、人生のスケールとか広がりをこうしていきたいと表している。
最初は、私の人生は非常に閉じたところから始まった。誰でもそうかもしれないけど、私はとりわけ閉じていた!と思ってて、とにかく小さい世界の中で夢心地で生きていた。端的に言えば幸せだった。
小学生になるくらいで、世界が無理やり広げられてしまった。ここからの人生は、劣等感と無力感、これじゃいけない感みたいなものにずっと苛まれてきた。しかし、それと同時に、何かこう、閉じた世界になかった期待感みたいなものも常にあった。いいところも悪いところもあった。
私は、この広がった世界を、これからは整理していき、閉じていこうと思っていた。その整理の作業が、何か作品を作ることだって思ってた。
閉じたら、普通の幸せな人間になろうと思ってた。その思い描いてた幸せな形が、非常に平凡であるけど…同世代の可愛い女と結婚して、子供がいる ということだった。そして、どんどん閉じていこうと思ってた。幼少期のような夢心地の世界に行こうって思ってたのだ。
アルジャーノンに花束を、という映画やドラマにもなった小説があるけど、イメージはそれに少し似ていた。
主人公のチャーリーは、最初は知的障害のせいで、自分がバカにされてることも気づいていなく、劣っていることも強く意識していていなかった。
しかし脳の手術で頭が良くなって、世界が広がった。色々見える様になった。それは素晴らしいことのようだし、実際いいこともあるんだけど、同時に、自分が今までバカにされていたことにも気づいた。
最後、結局向上した知能は元通りに下がっていく。
そんなイメージに近かった。
ああでも俺には無理なんだなって思った。多分。
幸せになれないと思った。いろんな理由があるけど。
幸せになることを諦めて、とりあえず淡々と、人生を片付けていこうと思った。その先に何があるのかはわからないけど、いちいち自分の人生に落ち込んだり、リアクションを取るのはやめようと思った。
大したことのない人生だし、何も救われないことだって普通にあるはずで、その日まで淡々と、やろうと思った。
つまり、救われなくてもいいって思った。苦しんで死ぬことも人生の一つだと思った。