毎日自分の気持ちが変わる。
よくわからなくなってきた。今はよくわからない。
今、何もない気がする。何にも心が動かない。
辛い。
毎日自分の気持ちが変わる。
よくわからなくなってきた。今はよくわからない。
今、何もない気がする。何にも心が動かない。
辛い。
嘘も方便、みたいな考えが今嫌なのは、そういうことを書いちゃったり言っちゃったりすると、時が経つといつのまにかそれが嘘なのか本心なのか自分でもわからなくなるような気がするからだと思う。
というか社会的に耳障りのいい言葉を吐くわけだから、なんとなく自分も結局そっちの方が楽だと思って、そういう嘘の言葉を内面化してしまいそうな気がして怖い。
二週間放置してた転職用の自己PRを書いてみたけど、今は、とてもそれを書けるような精神状態でないことがわかった。
二週間前より、「嘘をつく」ことへの嫌悪感が増してる。
私は何かに怒ってる。強烈な嫌悪感があるのだと思う。その嫌悪感は、やっぱり自分に嘘をつくこと。自分が社会に受け入れられるように、やりたくないのに、振る舞いや話すことを変えてしまうこと。
二週間前は、嘘も方便的な精神で、とりあえず自分を楽にするためにどこかへ転職できるなら、少しは妥協して社会に合わせてやろうという気になれたのに、今はなれない。
そういうことを考えてる時間が無駄無駄の無駄に感じる。そして、やるせなくなる。屈辱的な気持ちになる。
私は人と関わりたくないのに、人に雇ってもらうための自己PRを書いていることがそもそも大嘘で、不誠実なことをしてる。屈辱的だ。
よくその中で、「ゴール(実現したいこと)は人に言ってはいけない。ドリームキラーに攻撃されるから」という趣旨のことを言っているのだけど、私は言いたくなってしまう。
俺は、「俺の東京タワー」を作りたい、のだと思う。いや、作りたいというのはおかしい。
それは映画や本でもないなにかであり、モノとか作品じゃない「人生そのもの」みたいな感じがする。作るとかではないのだ。よくわからないのだ。
その「俺の東京タワー」への欲望、それは私を動かすエンジンみたいなもので、そのことを意識すると、最初は興奮状態が訪れるのだが、その後、何だか生きる気力がなくなっていく。
それは、何か人生の答えを見てしまったような感覚になってしまうから。
ディズニーランドのスタッフ控え室とかの裏側を見てしまったような感覚があり、空虚に感じるから。ネタバレをしてしまった感じがする。
だから最近は、あまりそれを意識しないようにしている。
これはいわば精神分析の言葉の「対象a」のようなものなのではないか?と思っている。
対象aという概念を理解しているとは思ってないが、実体がなく、目に見えなくて、欲望の原因とやなるもので…と、当てはまることが多い。
それ自体は空虚であり、あまり見ようとしてはいけないもので、見続けると気が狂ってしまうのだと思っている。
でも不意に見てしまうことがある。
俺はリリーフランキー原作の映画の「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」のサントラを聴くと、それを見てしまうことができる。
現世では捉えられないこと、死んでからじゃないとわからないことを俺は見ようとしている気がする。
私の手のひらに収まる、できることって、せいぜいブログという体裁の中で衝動を原動力に一つの記事を書くことくらいなのかなと思う。
何となく不安だ。
私はどうなりたかったのか。なかなか思い出せない。
思い出したところで、もうどうにもできないかもしれない。
今日職場からの帰り道、重い雪を避け歩きながら、「私の人生は、いま、行き詰まってるのかなあ」と思った。
袋小路にいるのかもしれない。
とにかく、楽になりたいという気持ちが強い。
全てのしがらみから解放されたら気持ちいいと思う。
もう雪国には住みたくない。
楽になりたい。
仕事を辞め、数少ない人間関係も清算して、1からやり直したい。
夜明け前が一番暗いと言うが、私の人生はいつまで夜なのだろう。昔よりどんどん暗くなっていく。
早く私の人生の夜が明けて欲しい。
今、何にも心が動かない。これは辛い。
私の人生の夜よ、もう明けてくれ!
アフターエフェクトという動画制作ソフトの練習を始めてるのだけど、練習というか、勉強ってこんなつまんないのかと思った。
「勉強」するのなんて何年ぶりだろうか。と思ったが私は2年間公務員試験の勉強を一応してたのか。何故か記憶から抜け落ちていた。
しかしこのブログという形式は苦手だ。Twitterの方が思ったことが書きやすいと思う。なんか混乱してしまう。いくらでも頭に思い付いたことが書けるし、書かないといけない気がするから。
何を思いついて、この記事を書き始めたのかと言うと、勉強してると、否応なく自分の限界や人生の残り時間の制約を意識してしまうというこを実感したから、それを書こうと思ったのだ。俺に出来ることは少ないな。何を最低限残して死ぬかを意識して生きないと何もできないまま死にそうだ。
今日は仕事を休み、札幌の心療内科に行ってきた。
今はその帰りで、JRで留萌まで帰ってる。
夕陽が沈んで、うっすらとだけ明るい札幌の街が車窓から見える。
夕暮れ過ぎてきらめく町の灯りは悲しい色に染まって揺れたすぎる風景で、俺はこれに永遠の感覚を感じる。
永遠の感覚、というのは、俺の造語だ。
昔YouTubeで、鶴見俊輔という人のインタビューを見て、その中で、永遠の感覚という言葉を使っていた。
多分、おそらく、99パーセント鶴見俊輔が使っていたその言葉とは違う意味で、俺はある感情のことを永遠の感覚といつからか呼んでいる。この永遠の感覚というのは、その感覚を引き起こそうと思っても引き起こせない。恣意的に引き起こせるものでなく、ある時ふっと体に降りてくるものだ。そして、救いの感情である。懐かしい感情である。今から10年前、当時高校3年生だった、2012年ごろの風が私の心に吹く。
永遠の感覚は、あの頃の感覚なのだ。
しかし俺は、永遠の感覚のことを、なかなか言葉にできないでいる。できないのではなく、したくないという方が正しいかもしれない。
永遠の感覚は、多分永遠でないものを永遠と思える感覚だから、ちゃんと言葉にすると嘘かもしれないことがわかってしまう。
だから、あまり言葉にしたくない。
そして、こんな風に書いてると、もう消えてしまって、どんな感情なのか思い出せない、いや、思い出せるのだが、全然心にしっくり来なくなってしまうのだ。
そして、とても不安になるのだ。