今日は仕事を休み、札幌の心療内科に行ってきた。

今はその帰りで、JRで留萌まで帰ってる。

夕陽が沈んで、うっすらとだけ明るい札幌の街が車窓から見える。

夕暮れ過ぎてきらめく町の灯りは悲しい色に染まって揺れたすぎる風景で、俺はこれに永遠の感覚を感じる。

永遠の感覚、というのは、俺の造語だ。

YouTubeで、鶴見俊輔という人のインタビューを見て、その中で、永遠の感覚という言葉を使っていた。

多分、おそらく、99パーセント鶴見俊輔が使っていたその言葉とは違う意味で、俺はある感情のことを永遠の感覚といつからか呼んでいる。この永遠の感覚というのは、その感覚を引き起こそうと思っても引き起こせない。恣意的に引き起こせるものでなく、ある時ふっと体に降りてくるものだ。そして、救いの感情である。懐かしい感情である。今から10年前、当時高校3年生だった、2012年ごろの風が私の心に吹く。

永遠の感覚は、あの頃の感覚なのだ。

しかし俺は、永遠の感覚のことを、なかなか言葉にできないでいる。できないのではなく、したくないという方が正しいかもしれない。

永遠の感覚は、多分永遠でないものを永遠と思える感覚だから、ちゃんと言葉にすると嘘かもしれないことがわかってしまう。

だから、あまり言葉にしたくない。

そして、こんな風に書いてると、もう消えてしまって、どんな感情なのか思い出せない、いや、思い出せるのだが、全然心にしっくり来なくなってしまうのだ。

そして、とても不安になるのだ。